鳩居堂に関わる歴史や、屋号の由来についてご紹介いたします。

熊谷市立熊谷図書館所蔵
- 1180年(治承4年)
- 熊谷直実(くまがいなおざね)※1が、軍功により源頼朝から「向かい鳩」の家紋を賜りました。
- 1186年(文治2年)
- 一の谷合戦で熊谷直実が平家の敦盛を討つお話は、文楽や歌舞伎の人気狂言「熊谷陣屋」で上演されます。舞台で使用される陣幕には「向かい鳩」の紋が漢数字の「八」のように描かれており、のちの「鳩居堂」と関連があります。
- 1193年(建久4年)
- 熊谷直実は出家して、法然上人の弟子になり、「蓮生(れんせい)」と名乗りました。

- 1663年(寛文3年)
- 熊谷直実から数えて20代目の熊谷直心(じきしん)が、京都寺町の本能寺門前にて、薬種商「鳩居堂」を始めました。屋号は儒学者・室鳩巣(むろきゅうそう)※2の命名です。由来は中国の古い時代の民謡集『詩経』の召南の篇にある「維鵲有巣、維鳩居之」で、カササギの巣に託卵する鳩に、「店はお客様のもの」という謙譲の意を込めたものです。また、室鳩巣の雅号と熊谷家の家紋「向かい鳩」にちなんだ屋号でもあります。

- 1700年代(元禄13年)
- 薬種の原料が「香」と共通するところから、薫香線香の製造がはじまりました。また同時に、薬種原料の輸入先である中国より、書画用文具を輸入して販売をはじめました。(写真は、池大雅の揮毫による当時の看板)
- 1789年頃(寛政元年)
- 文人墨客(頼山陽※3、池大雅、田能村竹田など)と深く交際するようになり、筆・墨も業とし研究を命じられ、弊社独特の製筆技術で中国製をしのぐものであったと賛を寄せています。この頃より筆、墨の製造が始まりました。

- 1800年代初期(寛政12年)
- 儒学者 頼山陽の指導で筆や墨の改良が試みられました。望み通りの品ができたことを喜んだ山陽はその雄大な筆蹟をもって自ら「鳩居」や「筆研紙墨皆極精良」と揮毫したり、「鳩居堂記」という長文の巻物を残して下さいました。

- 1833年(天保4年)
- 店外からは見えませんが、屋根のてっぺんにある双鳩の鬼瓦には「瓦師 甚兵衛 天保四年八月彫」と記されています。
- 1850年前後(嘉永3年前後)
- 4代目熊谷直恭は、文人墨客との交流のほか社会奉仕にも志が篤く、有信堂という種痘所(種痘とは天然痘の予防接種のこと)を設けたり、コレラ対策に力を注いだりしましたが、自らも1859年、コレラに感染して多彩な一生を終えました。



- 1858年(安政5年)
- 7代目熊谷直孝42歳の折に板倉槐堂により撮影されたもの。本湿板写真は、当時としては大判で高度な技術によるものであり、京都市内では最古のものと云われています。

- 1860年前後(万延1年)
- 熊谷直孝は、直恭の意思や行動を受け継ぎ、国事に奔走したり、教育事業に熱中したりして、有信堂に寺子屋を少し組織化した教育塾を設置し、これが全国で最初の小学校開設の基になり、明治2年(1869年)柳池小学校が開校されました。
没後の1903年には「贈従五位」の栄誉を授けられました。
- 1874年(明治7年)
- はじめて、筆の技術者を中国に派遣して、技術の進歩を図りました。

- 1877年(明治10年)
- 直恭以来の社会奉仕や国事事業への貢献が認められ、8代目熊谷直行は、太政大臣三條実美(さんじょうさねとみ)公より、900年来
伝承されてきた「宮中御用の合せ香」の秘方をすべて伝授されました。
平安朝に生まれた日本の香りは、一子相伝として今もなお、鳩居堂により正しく伝えられております。そしてこの雅やかな薫香線香をこれからも大切に守り伝えていくことが私たちの使命と心しております。
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- 1912年頃(大正始め頃)
- 東大教授黒坂勝美博士が指導監督の下に、正倉院御物並に諸家の秘庫や古文書により考証し「仿古名家用筆」を忠実に復元し完成しました。

- 左から
- 弘仁御筆
- 弘法大師用筆
- 藤原行成御用筆
- 藤原佐里御用筆
- 橘逸成朝臣用筆
- 小野道風朝臣用筆
- 藤原公任御用筆
- 京極黄門定家御用筆
- 本阿弥光悦翁用筆
- 近衛三藐院用筆
- 瀧本昭乗坊用筆

- 1913年(大正2年)
- 9月6日、京都の本店が火災により全焼しました。
火災直後の集合写真。

- 1914年(大正3年)
- 火災後の改築された京都の本店です。
改築後の記念写真。
- 1914年(大正3年)
- この看板は、店舗焼失後、再建された時、新しく調製したものです。
著者は、確かな言い伝えによると、羅振玉(1866〜1940)。また、山田古香(1852〜1935)という説も。

- 1924年(大正13年)
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- 1930年頃(昭和5年頃)
- 写真の日付は、昭和9年12月6日。
この頃の工房の風景です。
当時は、まだほとんどが手作業でした。

- 鳩居堂名古屋支店。現在はありませんが、当時、名古屋鉄砲町1丁目に出店。

- この頃の銀座風景、東京鳩居堂と銀座4丁目交差点です。懐かしい路面電車(都電)が走っていました。
- 「ころばぬさきの要心棒 かまれた時の蛇頂石(じゃちょうせき)」まむし、むかで、蜂、蚤、蚊、くらげ、毒鼠、狂犬など毒虫や獣類に咬まれたり、刺されたりした時に傷口にあてると毒気を吸い取ると言われていた薬石です。
明治から昭和初期にかけて製造販売していました。
- 1942年(昭和17年)
- 個人組織であった鳩居堂を3つの法人に分割し、製造部門=鳩居堂製造株式会社、販売部門=株式会社京都鳩居堂・株式会社東京鳩居堂としました。
- 1952年(昭和27年)
- 書の手本として鳩居堂が保有している、藤原行成筆『仮名消息』が国宝に指定されました。



- 1954年(昭和29年)
- 1891年宮内省御用達制度が定められ、1954年に制度が廃止されるまで、その任を拝命していました。
- 1965年頃(昭和40年頃)
- 東京鳩居堂、銀座本店を改築及び模様替えしました。
- 1982年頃(昭和57年頃)
- 東京鳩居堂、銀座本店を改築しました。
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『鳩居堂』という屋号は、儒学者 室鳩巣によって、中国の最古の詩集といわれる「詩経」の一節「維鵲有巣 維鳩居之」(これかささぎのすあり、これはとこれにおる)からとったといわれております。このことは、江戸中期に鳩居堂4代目主人と交流のあった儒学者 頼山陽が書いた「鳩居堂記」という巻物に記されています。
「これカササギの巣あり、これ鳩之に居る」という詩の訳は、まさに「カササギの巣に鳩がいる」ということで、鳩は巣作りが下手でカササギの巣に平気で住んでいる、すなわち『借家住まい』ということを意味します。
あるとき、4代目主人は、ある人にこう尋ねられました。
「鳩居堂は既に4代、百余年にも亘って老舗として繁盛しており、自分の店舗もしっかり持って営業している。これを称して借家住まいという屋号は、おかしいではないか。」
返答に困った主人が山陽先生に助けを求めました。
山陽先生の答えは、
「家であれ国であれ、自分一代で成ったものではなく先祖代々受け継いできたものです。謂わば先祖の家に借家住まいしているようなものであり、もともと自分のものではない。そもそも国家や商売が衰えたり滅びたりするのは、そのことを忘れて自分のものだと思い、過ちを犯すからで、先祖からの預かり物だと思えば決して疎かにせず、つぶれることもないのです。鳩居堂はその名の如く、店を自分のものと思わず慎み深くやっているからこそ繁盛しているのです」という内容でした。
つまり、「店は先祖そして世間からの借り物、預かり物であるということを忘れずに、謙虚な気持ちで商いに励め」という戒めの言葉が、まさに屋号の『鳩居堂』に込められているわけです。
「店はお客様のもの」という謙譲の心が込められたこの屋号を、ご先祖から後世への戒めの言葉と受け取り、大切にしています。